許鞍華

先日の許鞍華(アン・ホイ)のインタビュー(id:hkcl:20090423)より、さらに興味深いインタビューがあったので。

新京報(以下新):一環して《天水圍的夜與霧》を準備していて、最後には《日與夜》を先に撮影したのは何故ですか。


《天水圍的夜與霧》組。許鞍華(以下許):2004年復活節、ある監督と話しをしている時、香港の天水圍天恒邨で一家四人惨殺事件が発生したというニュースが流れました。その時この事件は映画になると感じたのです。私は天水圍に出かけて行って、事件の一家の隣人たちにインタビューしました。脚本を書き終え、私たちは出資者を探しました。資金は700万香港ドルです。しかしこんなに多くの資金はもともと集めるのが無理だったのです。当時、多くの香港の映画会社のオーナーたちは(大陸との)合作映画を作っていたのです。この映画は合作映画には相応しくありません。話し全体が暗いのです。大陸の審査を通過するのは難しいと思いました。


この間、私たちは最後の努力で、香港国際電影節のHAF(香港亞洲投資會)に申請しました。しかし入選はしたものの奨は貰えず、10万香港ドルの賞金を手にしました。これでは足りません。その後この脚本は据え置きされることになりました。《姨媽的后現代生活(おばさんのポストモダン生活)》を撮影後、突然嬉しいニュースを受け取りました。ある会社の社長がこの映画に出資していいといっているというのです。ところがクランクイン3週間前になり、この社長が突然出資はしないと言ってきたのです。なぜならこ街の人たちがのこ映画の撮影に反対しているというのです。彼らは傷痕を再び公にして欲しくないと思っていたのです。当時私もこの映画を撮るべきなのか自分でも疑問に思いじはじめていました。したがって社長が投資しないということになっても、私も何もいうことができませんでした。


しかしスタッフたちの仕事が無くなるのは私にとってはプレッシャーです。それで別の題材で撮影しようと決定しました。そのとき突然、何年も置き忘れていた脚本のことが頭に浮かびました。それが《日與夜》の脚本です。7、8年前、ある学生が送ってきたものです。当時の脚本は[艸/全]湾の物語りでした。資料集めの段階で天水圍の大部分の人の実際の生活は平凡で穏やかなものだと気づいていました。その時、王晶バリー・ウォン/ウォン・ジン)が私に何か撮りたいものはないかと聞いてきたので、《日與夜》の脚本を渡し、話し合って電視電影(ハイビジョン撮影の映画)を撮りました。それは大きな賭けをしたくなかったからです(註:ハイビジョンによる撮影は資金が少なくてすむから)。王晶はその後、私にハイビジョン撮影のために資金を提供してくれました。14日で《日與夜》を撮りました。2008年香港国際電影節で2回上映し、反応はとてもよいものでした。王晶は私に続けて何が撮りたいものはないかと聞いてきました。それで私は《夜與霧》を彼に見せました。王晶は1000万近い資金を用意してくれました。いま私は2本がそろって完全だと思っています。ひとつは明るく、ひとつは暗く。天水圍の住人は《日與夜》を好んでくれています。私にとって《夜與霧》を撮ることは《日與夜》を否定することではありません。撮影はより簡単でした。


新:あたなのように著名な監督でも投資者を探すのが大変なのでしょうか。


許:《男人四十》以降、私の映画は興行成績がよくありません。《男人四十》は資金が1200万、香港の興行成績は700万、この映画の時にはまだ大陸マーケットはありませんでしたから、最後には損をしました。その後、純粋大陸資本の《玉観音(デスパレード・愛されていた記憶)》は、出資者は損をしませんでしたが、この作品の香港配給権を購入した会社は損をしました。香港ではさんざんだったのです。その後《姨媽的后現代生活》も損をしました。しかしこれには原因がありますが、それについては多くは語りません。


新:それでは普段は生活のために学校で教えたり、広告を撮ったりしているのですか。


許:これは香港の監督たちの間では普通に起こることなのです。大陸の監督にはスターより集客力のある人がいることは私も知っています。しかし香港では「スターで売る」のです。俳優から監督になった周星馳成龍、香港中国返還後に人気になった劉偉強(アンドリュー・ラウ)、陳可辛(ピーター・チャン)、杜琪峰(ジョニー・トー)は別ですよ。でも彼らの報酬も張藝謀(チャン・イーモウ)や陳凱歌(チェン・カイコー)や馮小剛(フォン・シャオガン)など大陸の著名監督よりも多くはないはずです。


新:天水圍は資金を回収できましたか。


許:すべて回収できました。王晶はテレビとソフトの版権を売っただけですでに資金を回収できていると話しています。by 2004.4.24「新京報」(抜粋)