「港片的未來、將臨的轉進・從《香港電影回顧》説起」

出席:鄭思傑、朗天、羅永生、張美君(写真左から)


香港電影評論學會刊の2010年の《香港電影回顧》を出発点にして2011年前半の映画についても触れる。香港電影評論學會の人たちは、97年以降の香港映画の動向(傾向)をいろいろ名前を付けて論じてきているが、《葉問》以降は「打功夫主家男人」。そして《打擂台》など2010年に出てきた一連の映画を「新懐舊電影」といっている。
以下は鄭思傑の発言を中心に思い出したものを適当に。

  • 自分が何が撮りたいのか何がいいたいのかが重要。言語はどんなものでもかまわない(広東語でなくてもいい)。
  • 《打擂台》の大陸上映について:大陸での興行成績は80万元。実は《打擂台》は合作映画である。当初、脚本の審査が通らず大変であった。面倒になり北京語版をあきらめた。シンガポール用の北京語版はある。その後、なぜか大陸で上映出来ることになったが、日時は不明。さて上映となったら、郊外の映画館でそれも1日1回だけの上映だった。なかにはショッピングセンターの一部を改装して映画館にしたようなところもあった。観客1人というところもあったようだ。観客は大喜び(ひとりじめで)だが、僕は悲しかった。
  • 大陸で見られている映画は馮小剛だけ。自分には退屈で面白くない。《手機》までは面白かったがそれ以降はまったく面白いと思わない。しかし大陸ではみんなが見る。
  • 少し前に大陸で興行成績をごまかす話があったが、数年前にもすでにあった。3年ほど前、北京で《葉問》を見た時、チケットは《非誠勿擾》になっていた。違うじゃないかといっても、「いいからいいから」と言われた。
  • できるなら大陸で撮りたい。それは興行成績やお金が儲かるということでなく、いま大陸は観客を教育している段階。さらに世界中でただひとつ、逆走している場所。全世界の人々が映画を映画館で見てきて、それがディスクやネットになったのに対して、大陸は最初に海賊版ディスクやダウンロードがあり、いまになってお金を払って映画館で見る楽しさを知った、という珍しい状況にある。観客が育っていくこの状態にかかわりたい。そして何が面白い映画なのか、どんな映画がいいのかを教えていけるなら、それはやってみたい。
  • 大陸の規制について:期限や規制がなかったら何も出来ない。たとえば、資金がいくらでもあり何が撮りたいのかと聞かれたら、資金がいくらでもあるなら映画なんか撮らないでマンションを買う。だから規制や期限は必要なもので、それがあるから奮闘できる。香港も規制がないわけではない。どこにでもあるものだ。ハリウッドがいいというが、陳可辛の話では、ハリウッドほど規制の厳しいところはない。ストーリーボードがすべてで、その通りに撮らなければならない。途中で飛ばしたりなど絶対にできない。じゃあ監督は何をするのかというと俳優とコミュニケーションを取るだけ。編集は編集がやる。龍剛監督からは50、60年代のころは、大作は台湾マーケットを当てにした国語版が主流だったので、広東語映画は低く見られていたと聞いた。いつの時代もどこでも規制はある、大陸に規制があっても当然なのだ。
  • 《単身男女》は武侠映画だ。陳可辛の《武侠》には「武」はあるが「侠」はないが、《単身男女》には「武侠」がある。《単身男女》は古天樂と呉彦祖がさまざまな技を駆使して戦っている。武侠映画でなければ、最後(蘇洲の場面)、相手に負けた古天樂が呉彦祖に向かって、親指を突き出し、「好」なんていうはずがない。・・・・

今日のところはここまで。