商業映画を我がモノに

・香港映画人は商業映画を我がモノに

「金紫荊奨」の受賞者と評論學會奨の受賞者は異なる。さらにメインイベント「電影金像奨」の受賞者も異なることだろう。現在、電影金像奨の2度目の投票は進行中だ。まだ誰に投票するのか決めかねている人もいるだろう。
昨年の香港映画には、特に突出した作品は無いと思っている。ほとんどの映画は模索し、出口を探しているようだ。
・興行成績と創造性はイコールではない
創造性が大事だとある評論家は言う。昨年の香港映画は創造性が不足していたように思う。しかし興行成績と創造性はイコールではない。本来興行成績が期待出来るはずの作品は失望を隠せない状態だった。
電影金像奨についていえば、平均して高得点を得られる映画は、少ししかないだろう。それは投票する人数が多いことと、1人1票しか投票出来ないことによる。
昨年、総じて出来のよかった映画は、創造性ということにおいては、保守的な傾向が見られる。それはわざと新しさを追求しなたかったことによる。従って見やすいということもいえる。
2004年の香港映画の最大の問題点は、図らずも映画人の心を反映してか、活力不足だということだ。心を砕いて作ったであろういくつかの映画は、そのトーンは灰色で、未来はなく、窒息するような感覚だ。
しかし最もひどい状況は、このようなことではなく、商業映画を旗印にしている香港映画に降りかかった。昨年の5月から、夏休みにかけての香港映画の興行成績には失望させられ、昨年に暮れには緊急救助が必要となった。12月《功夫》が無かったなら、状況はさらに悪くなっていただろう。03年に面白かった無厘頭(モウレイタウ=ナンセンス)コメディは、今では笑うことが出来ない。さらに主力の監督・杜琪峰(ジョニー・トー)や爾冬陞(イー・トンシン)は、ひとまず商業映画をあきらめている。
今年の2本の旧正月映画の敗北は、昨年の香港映画の延長の如し。香港の商業映画は創造性において、後戻りしていると言える。香港映画は一貫して娯楽性たっぷりなことが魅力であった。最も恐いのはその娯楽性が、一時的とはいえ、把握出来なくなることだ。旧正月映画の《喜馬拉亞星》は無厘頭コメディを引き継ぎ、加えて道理を説こうとしているが、どちらも良い結果は得られていない。《韓城攻略》はジェームス・ボンド式のアクション喜劇の重複。観客は変わり映えしないと思っただろう。
映画人が今年、力を注がなくてはならないのは、商業映画だ。マーケットを失っては、そのうち台湾のようになってしまう。芸術作品は海外で1つ2つの受賞は出来ても、商業活動としては成り立たない。また中国大陸の映画のように、多くの国際的な奨は受賞できるが、自国のマーケットはつかめないとうことになってしまう。2005.3.9「明報」郭繾澂 記

芸術映画で海外の奨を受賞する作品も、香港で大うけする映画も、どちらも必要だと思うんだけど。ホントはこれが一致すればいいのだろうけど、そうは行かないらしいから。海外で受賞する→海外で配給権が買われる→外貨を稼ぐ→それを資金に香港で受ける映画を撮る、っていうのもあるだろうし。大陸で受ける→人民元を稼ぐ→香港で受ける香港映画を作る、っていうことも出来るわけだし。香港でも大陸でも受ける→海外の投資家が注目する→投資してもらえる、というのもあるかもしれない。そうは簡単にはいかないのだろうけれど・・・・。でもなんとかそこを・・。