1428

《1428》四川地震のドキュメンタリー 杜海濱:監督


今年の香港亞洲電影節でもっとも期待しいていた作品。
ドキュメンタリーほど監督の思想が画面の隅々まで行き渡っている映画はない。ものごとは監督の目を通して画面に焼き付けられて初めて事実となる。映画は監督の目が見た事実なのだ。
四川大地震について私が知っているのは新聞やテレビで報道された悲惨な情況や悲しい事実、または救出や死であった。しかしこの《1428》に描かれているのは、それら報道とはまったく異なる視点から見た被災地の様子だった。
前作《傘...》(id:hkcl:20081005)を見れば自ずと予想されることではあったが、膨大な事柄から監督がいったいどういった事実を切り取って四川大地震の何を見せてくれるのだろうというこちらの期待と予想を遥かに凌駕する真実に、スクリーンをみつめながらおろおろしてしまう。
映画は被災後10日から1年数か月後に至る期間に撮られているのだが、ことさら悲劇を描くでも同情を誘うでもない、描かれていたのは人々の力強い生き様だった。もちろん、子供を探して涙する人、寺崩壊に泣き叫ぶ人、山の上から水のある場所まで降りて来て洗濯し洗濯物を背負って道なき道を登って戻って行く人なども登場するのだが、被災から時間が経つにつれ、崩れ落ちた建物の残骸を金槌で叩き壊し鉄筋を取り出して売る人々、我れ先に鉄骨を取ろうとする人々、そしてそれを買う人々、豚小屋から豚をトラックで買いあさっていく人、トラックを即席の肉屋にして売り歩く人など、生きてゆくための”生活”がより克明に切り取られ映し出されていく。温家宝が被災地にやって来るというので一目顔をみようと沿道には村人が出て来る。手を振る温家宝を見てテレビと同じだという人々も映る。
そして1年数か月後には、新しい住宅が建ち上がり晴れやかに販売されている。さらに驚くべきはバスを乗り付けこの被災地に観光でやってくる人々が大勢いることだ。被災地は封鎖され近づくことはできないが、そこを見渡す小高い丘に観光客はやって来る。そしてその観光客目当てに、被災情況を解説し被災地の写真を売る人々がいるのだ。中には親族が亡くなっている人もいるが、それでも生きるために写真を売っている。感傷になど浸っているひまはない。生きて行かなければならない。
何年たっても被災した人は悲しんでいるに違いないなどという安っぽい思い込みをばっさりと切り捨てられる事実。人は生きて行かなければならないという歴然とした事実を突きつけられ、ただただスクリーンを見つめうなってしまったのだった。2009.10.24@香港亞洲電影節(bc)


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