映画の題字を書く人

旧正月前、筆をとる華戈。
友人の黄修平(アダム・ウォン)監督の奥様から監督の新作《狂舞派》の題字を有名な人に書いて貰ったと聞き、帰国前に監督らと飲茶をした際、《狂舞派》の脚本家のひとりサヴィーユ(陳心遙)さんから書いて貰ったという数点の題字を見せてもらった。
「とても有名な人で沢山の香港映画の題字を書いてるんだよ。代金はいくらでもいいと言うんだ」。
「場所は砵蘭街だよ」と聞いて、思いあたった。ランガムプレイスの斜め前のケンタッキーの先のビルの軒先に小さな屋台を出して、そこで文字を書いている人を見たことがあったからだ。ただいつも開いているわけでなかった。あの人がそんな有名な人だったとはつゆほども知らず、こんなところで字を書いて商売になるのかなと思っていたのだった。
ネットで検索すると記事があったので、訳してみることにした。

街の書家・華戈


華戈、本名・馮兆華。1948年広東省順徳生まれ。華戈は筆名で、「華」は「花」のことで、弱々しいので音が少し強くなるように「華戈」と呼んではどうかと友人にアドバイスされたという。彼の書いた字に見覚えがあるだろう。彼の書いたものはすぐ近くにあるのだから。
「この字はあんたが書いたのか?」
「ええ」。華戈は答えた。
「書いて見せてくれ」。華戈はいつものように書いた。
「本当だ。ははは」。この人が洪金寶(サモ・ハン)だった。
華戈は「大哥」と知り合ってから、多くの映画人を知るようになり、映画の題字を頼まれるようになっていった。香港映画の黄金時代には、麥當雄(ジョニー・マック)、黄百鳴(レイモンド・ウォン)、徐克(ツイ・ハーク)、王晶(ウォン・ジン)、周星馳チャウ・シンチー)、劉偉強(アンドリュー・ラウ)、杜蒞峰(ジョニー・トー)など数々の著名監督や俳優たちの映画に華戈も参加していた。いったい幾つ書いたのか覚えていない。60本以上なことは確かだ。印象深いのは《破豪》。大陸の友人はこの字が彼の筆によるものだと分かり、華戈が香港にいることを知ったという。
映画《黒社会以和為貴》《倩女幽魂》などの題字も彼の筆によるものだ。九龍灣・徳福廣場、レストランの富臨や美心皇宮の看板なども、みな字体は異なるが書いたのは彼だ。コンピュータの字体を使うのが流行りだが、Junoは自身のCDで歌詞を華戈に頼んで書いて貰っている。人気の理由は変化を受け入れる姿勢だ。
「字の上手い書家は沢山いるが、物語を考えて感情を字に書き出す人はいない。《葉問》は詠春について話しているんだと理解した。だから肉を拳で殴るように書くことはせず、少し上品にした。《破豪》は違う。麻薬王の話だから少しばかり「爛れた」ようにした。林夕が麥浚龍に書いたのは佛教的な歌詞だったので、字に少しだけ禅の風味を加えた」。
「お客がここを強くとか、ここを長くして欲しいと言っても、少し変な字体を望んでも書き上げてしまう」。芸術家のプライドは捨ててしまうのですか?「しょうがない、これは商売だからね。相手の好みに合わせる必要があるからね」。
その後、多くの香港映画が大陸で撮影するようになり、看板もコンピュータの字を使うようになっていって、砵蘭街で筆一本で商売をするのは華戈一人になってしまった。


1979年、華戈は大陸から香港へ移民してきて、右も左も分からず工事現場で働いていた。書道コンテストに参加し、受賞後に頼まれて字を書き100元稼いだのが転機になった。
「3日間の賃金より多かった。字を書いても食えるんだと知った。それから大胆にも看板書きを仕事にしたんだ」。
1か月の賃金をはたいてポケベルを買い、名刺を作った。日曜日になると土瓜灣や油麻地、旺角あたりを歩いた。「店の看板が古くなっているのを見つけると、新しくしないかと店にもちかけた。書いている時は幾らもらえるか分からない。相手が気に入るかどうかだから。稼ぎがいいときはよいものを食べて、稼ぎが悪ければ叉焼包で腹を膨らました」。
当時コピー機はまだ普及しておらず、看板は原寸大で書いた。三尺なら三尺で一気に書くから大胆さが必要だ。
書いていると全身ペンキだらけになる。このペンキのシミが付いた手提げ袋は当時のものだ。「子供がゴミ箱に捨てたものを僕が赤と白のペンキと筆入れにして使っていた」。手提げ袋は「栄誉のリタイア」しているが、記念にとってある。
白地の看板はどのように書くのかというと、まず白いペンキで下地を塗って、乾いたら赤いペンキで字を書く。簡単に聞こえるが時にはこれが大仕事だ。九龍城の金物屋の看板は高いところにあって、さらには道路に突き出ていた。脚立の上にさらにハシゴを縛り付ける。ハシゴとハシゴを縛ってようやく一番上に届いて字が書けた。「あの時は”怖いもの知らず”だった。車がちょっとハシゴにぶつかっただけでも危険だったんだ」。工業ビルの外壁に書いた時は敏捷だった。「片手は外壁の竹組をつかんで、片手には大きな筆を持って下書きもなしに全体で長さ5、6尺もある大字を書き上げた。恐れず言えば、僕以上の人はないと思うよ」。
当時華戈は30代、書家の中でも若い方で商売も上手くいっていた。「多くのお客さんは僕が店を出すのを待っていたんだ。予約が後を絶たなかったからね」。筆をふるうとすぐに10数人が取り囲む。「警察は通行の邪魔だといい書くのをやめさせ、溜まっている人を追いやる。するとまた筆を持つ。また人が集まる」。近くのレストランの看板を書いて落款を押した。夜になると誰かに盗まれてしまっていた。
彼の"店"は30年数年、砵蘭街にある。現在の砵蘭街はトレンディなショッピングモールがあり、麻雀屋があり風俗営業店があるが、数十年前は看板書きが集まっていたことがある。いろいろな地方からやってきた人がおり、少なくとも7軒ほどの書家の屋台があった。華戈は当時を思い出して、左右どちらの手でも字の書けた林義、寧波出身の謝樸、許為公、許一龍、劉飛龍、歐基、陳友、李偉玲などが並んでいたと話す。「最も優れていたと思うのは許為公。彼の書いた北魏(楷書のことか)はとても有名だった」。
80年代初め、華戈はリタイアする書家から2800元で"場所"を買った。その後、何回も引っ越しをして現在の砵蘭街と山東街の角・すでに閉店した旧康樂酒樓の場所に"店"を置くようになった。「そのころ雅蘭商場はまだ出来ておらず、近くにはレコード店や理髪店、名刺印刷屋、鍵屋、クワイを売る店、ジーンズを売る店があった。それから小さい家や食べ物の屋台もあちこちにあった。みなご近所さんという雰囲気だった」。
近頃、華戈はいつも店を開けているわけではない。先生をしている。週6日は教えており、学生たちはいろいろな職業の人がいる。
「まず『永』の字の基本の八法を教える。そのあと楷書、行書はだんだんに教えていく」。学生には手本を見て練習してもらうが、ただただ数を書けばいいわけでないし、真似をする必要もない。「『蘭亭序』『聖教序』もよくない字はあるので、勉強する必要はない。上手い字の一筆二筆を身につければいい。細かく観察すればそれで十分なんだ」。
現代の生活はスピードが速い。書道の課程も変わってきている。基本を教えたあとは、5回目で学生に作品を書かせてみる。「出来たという感覚を持たせるんだ。『I can』と感じること、興味を持つことが一番だから」。
華戈の書には師匠はおらず、自分で学んだものだ。5番目の男の子で、筆は父と兄が使ったあと華戈の元にやってきた。すでに筆は毛が抜けてしまっていた。手本は図書館から借りてくる。順徳の家のことは鮮明に覚えていて、学生や客によく話す。「毎年、旧暦の正月には授業は休んで、"店"でなじみ客のために字を書く。彼らはずっと贔屓にしてくれている。移民しても帰ってきて会いにきてくれる。嬉しいよ」といいながら、また看板の笑顔を見せた。
華戈が今に至るまでは、そう容易なことではなかった:太陽が照りつける真夏にペンキだらけになりながら看板書きをして、竹の足場に登ってビルの名を書いた。彼の歩んで来た道は、一つ前の世代の「獅子山下」の物語であり、街の書家たちが活躍した時代の証人なのだ。懐かしい思いもすでに遠い過去になってしまった。
by 2012.11.21「thehousenews.com」(写真は2013.1.28前後に撮影)

《破豪》《倩女幽魂》《逃學威龍》《六指琴魔》《黒社会・以和為貴》《奪帥》《葉問(前傳)》《新・少林寺》などの題字、《一代宗師》に出てくるすべての看板も彼の筆によるものだそうだ。