香港の観客は新人を応援すべし

爾冬陞(イー・トンシン)は新人の房祖名(ジェシー・チェン)と薜凱琪(フィオナ・シッ)を映画《早熟》の主役に抜擢した。これは応援するに値する方法だ。
筆者は能力のある映画人は香港映画の新しい局面を作っていくのが当然だと考えている。
《早熟》は爾冬陞が自ら投資して撮影、たとえ出資者を見つけたとしても、その出資額はけして多くはないだろうし、自らの報酬をつぎ込むことになるだろう。したがって爾冬陞は、自ら出資してこの映画を製作した。成功の暁には、この映画の版権をも手に出来るからだ。
新人を起用するのは、すでに名のあるスタッフの責任だと筆者は考えている。彼らこそが、新人を養成する能力を備えているのだ。新人監督や名のないスタッフが新人俳優を使っても、仕事には倍の力が必要で、出来は半分。誰の失敗が誰におよぶのか誰も知らない。
映画産業は芳しくない。出資者は大キャストの大作にしか興味がない。スターはギャラを値下げせず、意見だけを盛んにいう。それがいまの現象だ。
スターたちは、何故そんなに意見をいうのか。それはスタッフを信用していないからなのだ。彼らの撮る映画の出来が悪いのを恐れているのだ。しかしスターは出来が悪いのをおそれるあまり、どんどんと意見が多くなる。すると出来上がった映画はさらに悪くなる。キャストが立派は映画は、このところ、どれもあまり評判がよくない。興行成績を維持するために大スターと派手な場面があるだけ。オリジナリティ溢れるものは行く手を阻まれている。業界人は、大スターを使えば制約が大きいのは知っているのにもかかわらず。
・海外版権とソフト化権の収入は少ない。
新人を使って撮ることの最大の問題は、海外への版権とソフト化権の収入が少ないことだ。キャストだけを見ている人には、新人を使った映画は必要ないだろう。有名監督はその名前で、海外へ売ることが出来る。しかしその力はスターとは比べられないほど、弱い。
新人による映画は必然的にコストが低くなり、版権も高くはない。香港における興行成績がキーになる。香港の観客は当然、新人たちの映画を応援すべきだ。香港映画には新しさがないといいながら、新しいものには応援もしない。それでは、いったいどこの映画会社が数千万のお金を出して新人に映画を撮らせようとするのだろうか。
新人俳優は香港のマーケットに頼らなければならない。もし新人が出てこないなら、みんなはいつになっても、何人かの大スターの映画を見続けなければならない。そして、それはどんどんつまらなくなっていく。つまらない原因は、見慣れた顔、聞き慣れた声、彼らの表情1つをを見ただけで、何でも推測出来てしまうからだ。
・スタッフには責任が
俳優たちとスタッフに信頼がないなら、どうやったっていい映画は撮れない。中国映画だろうが、外国映画だろうが、成功した映画は、監督が全てを把握している映画で、スターで成功が決まるわけではない。映画は集団で作るもの。スタッフのそれぞれには、それぞれの仕事があり、俳優は俳優の居場所がある。あるスターは自分の演技が上手く行かないと、監督とその他の俳優を管理しようとする。そんなことでいい映画が撮れるわけはないと、ある監督は話した。by 2005.5.8「明報」郭繾澂 記

相変わらず訳しにくいので意訳あり。この時期、こういう記事を書くと、《早熟》と《三岔口》を比べているように見えなくもない。しかし《三岔口》もそれなりの努力していると思う。羅嘉良(ロー・ガーリョン)の起用や鄭伊健(イーキン・チェン)の弁護士は見慣れないものだった。ただキャストの新鮮さでいったら、《早熟》にはかなわないけれど。《早熟》の内容についてはid:hkcl:20050501#p1、《三岔口》についてはid:hkcl:20050430#p1を参照。
香港映画は以前から、1つ流行ると同じようなものを、同じようなキャストで撮る、同じ俳優に似たような役ばかりを振るという傾向がある。だから方中信(アレックス・フォン)には警官の役ばかりがやってくる(笑)。1度犯人を演じるとどの映画でも犯人なので、出てきただけで犯人か分かるという、土曜ワイド劇場なみのキャスティング(爆)。柳の下のどじょうも2匹ぐらいでやめといてくれるといいんだけどね。