越えること

[竹/肖]箕湾少し前、毎日インタラクティヴ「銀幕閑話」に第89話「鉄道シーンベスト5」という記事があった。
私も鉄道シーンを考えてみようとしたのだが、こと香港を舞台にした香港映画に限定すると、はたと困った。
先日来見ていた1960年代の香港映画には、鉄道と呼べそうな列車が登場することはあった。しかし香港では鉄道といっても、所詮は尖沙咀から羅湖までのKCRだ(広州まで、北京まで、上海までもあるにはあるが)。古い映画の鉄道はまだ雰囲気はあるものの、現在のKCRは、地下鉄とそれほど変わりない。駅にも、プラットホームにも風情がない。
「鉄道」が特別な感情とつねに結びついてるのは、それは場所から場所への「移動」にある意味が付与されるからだろう。生まれた田舎を捨て、希望を持って都会へ、夢やぶれて逃避、恋人に会いに、謎を探しに、愛に疲れて、切なさ、挫折、高ぶり、夢、恐怖、疑惑、さまざまな感情を鉄道が運ぶ。「移動」とはある感情の発露だ。そんな感情を運ぶ道具は、香港映画では鉄道ではなく、小巴(ミニバス)や離島行きフェリーのことが多い。
小巴で思い出すのは《堕落天使(天使の涙)》の黎明(レオン・ライ)。殺し屋の黎明が仕事を終え、まるで何ごとも無かったのように平然と小巴に乗る。殺人という非日常と小巴という日常の同居が、なんとも言えぬ滑稽さを生み出す瞬間だった。
小巴が主人公ともいえるのは、爾冬陞(イー・トンシン)監督の《忘不了(忘れえぬ想い)》。家へ帰りたくない張栢芝セシリア・チョン)は、夜遅く小巴の終了時間まで乗っていて、運転手の古天樂(ルイス・クー)と出会う。最近見た《獨家試愛》では、妻と喧嘩し家を飛び出した方力申が、久しぶりに家に戻ろうと小巴に乗る。降りようとすると、運転手に「しばらく見なかったね」と声をかけられる。たった16人乗りの小巴は、誰をも平等に乗せるが、あるときは優しく心を癒し、あるときはちくりと反省を促す。
フェリーが登場する香港映画も多いが、やはりフェリーといえば、王家衛(ウォン・カーワイ)《旺角卞門(いますぐ抱きしめたい)》。大嶼山(ランタオ島)フェリー乗り場で、張曼玉マギー・チャン)と劉徳華アンディ・ラウ)が、お互いの感情を確認するシーンがピカイチ。
と、ここまで書いてきて、はたと思い出した。KCRが「汽車」となって登場する映画があった。
陳可辛(ピーター・チャン)の《甜蜜蜜(ラブソング)》。香港へやってきた黎明(あ、またも黎明)が、期待を抱え好奇心に満ちて紅[土勘]で降りるシーンだ。そして物語の最後にもう一度同じ場面が登場する。風情のないKCRをモノクロの画面(だったかモノクロに近い画面)で描いて雰囲気がある。実は黎明の後ろには、やはり不安と決心を抱えた張曼玉が座っていたという、憎い演出だった。(あってる?)
もう一つはたしか許鞍華(アン・ホイ)の《男人四十》にあったと思い出し、すぐにDVDを買いに走り見直した。張學友(ジャッキー・チョン)と林嘉欣(カリーナ・ラム)がKCRに座っているシーン。曖昧な感情を抱えた張學友が、さらに先に踏み出したことを知らせる場面だ。行きのシーンは短いが、2人が、それぞれこれから起こるかもしれないことを考えて、なんとなく落ち着かない気持ちを抱えている。さらに學友にとっては、過去の記憶も重なり、複雑な心境を表現しているとても重要なシーンだ。それにしてもこの映画、どうして日本で公開にならないのだろうか。林嘉欣の中学生(日本でいえば高校生)がイライラするほど憎ったらしい女なんだけど。それはさておき。
最後に《黒社会》でも、龍棍を広州に隠そうと広州にある龍棍を取って、誰にも渡さないようにするために手下が慌ててKCRに乗るシーンが登場するのを付け加えておく。
こちらからあちらへ、あちらからこちらへの移動。越えるものが大きいほど、越える為の力が必要だ。香港では海と羅湖(道路なら落馬州もある)のボーダーが、大きな「境」になっている。実質的に大きな「境」を超えることが、象徴的な「境」を超えることに置き換えられていく。だから主人公たちは、フェリーに乗り、KCRに乗る。
では小巴は? この香港独特の乗り物については、さらなる考察をということで、本日はここまで。ちゃんちゃん。
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(おまけ)KCRが登場する映画は、もちろん他にもある。《少年阿虎(スターランナー)》では呉建豪(ヴァネス・ウー)とキム・ヒョンジュがキスする場面、《絶種好男人》では、ホームの反対側にいる張栢芝セシリア・チョン)に向かって任賢齊リッチー・レン)がとてつもなく音痴な歌を歌って自ら愛情が真実だと表現する場面がある。実はどちらもKCR大学駅で撮影されている。