畫外音:王晶

出席:王晶バリー・ウォン/ウォン・ジン)、登徒(トーマス・シン)、林錦波(ラム・ガムポウ) 
於:香港電影資料館 (以下無断転載禁止)


王晶王晶映画といえば、詐欺師ものや、ギャンプルもの、女の子をおっかける話しや、三級片、ばかばかしいコメディやパクリの代名詞。こ洒落た香港映画好きの女子や、ばりばりアクション好きの男子にも顧みられることのない存在。香港電影金像奨にノミネートされることはないし、海外の著名な映画祭に出品することもない。しかし彼の作品は、あまり多くない予算で作られても、つねに一定の興行収入が見込め、商業映画としては優等生。脚本、監督、プロデュース、俳優なんでもこなすこの奇才は、香港映画を語るうえで忘れてはならない存在だ。これまでに関わった映画は180本を越えており、邱淑貞(チンミー・ヤウ)など、彼がスターにした女優も多数。本名は王日祥、父は監督で、現在は杜琪峰(ジョニー・トー)映画でおなじみの王天林(ウォン・ティンラム)。以下ランダムに座談会の様子を。

  • 詐欺ものでは、脚本を逆から書いている。観客を騙すのではなく、ミスリードしていくだけ。これはテレビドラマ《千王之王》の時からすでにそうだった。
  • 最初《千王之王》は武侠片だったが、新鮮さを求めてギャンブルドラマになった。
  • 《至尊無上》(たぶん)、カジノでの不正場面(カードを配る際に、客はディーラーの時計の金属ベルト部分にカードの一部が映るのを見て賭けていた)、実は実際にラスべガスであったこと。それ以外にもギャンブルものでは実際にあったことを話しのトリックにかなりつかっている。
  • ギャンブル映画にしても、それはギャンブルを描いているのではない。それなら話しの種は尽きてしまう。人間を描いているんだ。
  • 《無間道》の脚本は王晶が書いたといわれているがと質問されて、私ではない麥兆輝が書いた。劉徳華と麥兆輝が脚本の話しをしている席に呼ばれたことはある。初稿の時に見ている。
  • リアリティのあるものは、リアリティなのではなく、実は後になって初めていえるけど、リアル(現実)にあったことなんだってことが多い。《黒社会》も《臥虎》もね。(《臥虎》は最初からそう言われていたが、え〜、《黒社会》も??)
  • 共同監督の場合は、いくつかの方法がある。パートを分けて撮る場合が1つ。相手にまず撮らせて、良かったらもっと続けてもっと撮ってという場合もある。自分が付け足したりする場合もある。例えば《黒白森林》では、黄秋生が家で襲われる場面(車椅子の黄秋生の父親が手榴弾を隠し持っていて、父親を冷蔵庫に隠して、秋生が窓の外からロープに捕まりながら、手榴弾を投げ入れる場面)は、麥子善が撮ったシーンを見て「え〜、これじゃ面白くないじゃない」といって、陳小春(チャン・シウチョン)が目隠しをしてチェスをする場面を自分が撮って組み合わせた。そうやって経験の少ない監督たちの力を高めて行く。
  • 杜琪峰は、父親・王天林の弟子にあたるため、早くから彼の存在に気がついており、彼はすごいといっていたが、誰も信じくれなかった。劉偉強は、もちろん成長の課程はあるが、最初からすでにりっぱに監督だった。
  • うちは家族がみんな仲がいい。父親、自分の姉、2人の娘、妻とみな仲がいい。家族の情は絶対だと思っている。たとえ、賭け事に負けても、家族がいればいい。家族を無くしたら、すべてを無くしたことになる。
  • 母子の関係より父子の関係を描いた作品が多いのは、やはり父親の影響があるからだろう。
  • 父親につては、子供のころはまったく理解できなかった。理解する機会もなかった。初めて父親についてマカオに撮影に行った時に(18歳の時)、父親の仕事ぶりを見て、その時に初めて父親を理解することが出来た。
  • 子供の時には父の書斎にあった本を読んでいた。金庸もなにもみな10代の初めのころに読み終わってしまって、父親の脚本も読んでいた。
  • 広東語映画(香港映画)の将来について質問されて、かつてのような香港映画黄金時代は絶対に2度とやってこない。それは香港だけでなく、どこの地域でも一度訪れた黄金時代はもう戻ってこないのだ。香港映画の監督たちが生き残る道は、大陸に入っていくこと。それにはまず普通話の習得、中文(中国語で書くこと、簡体字)に精通することが最も重要なことだ。大陸の人たちは、英語が出来たとしても使いたがらないので、コミュニケーションのためにも普通話は絶対に必要だ。普通話がきちっとできれば、尊重してくれる。契約書も中国語、英語の契約書はいやがる。
  • 大陸では、映画もテレビも区別ない。香港のようにテレビを抜け出して映画へという考え方はなく、映画の方が高級だという考えも無いから、テレビでも映画でもいいプロジェクトがあればする。
  • 喜劇は大陸では地域で分かれている。3つの部分に分けられる。長江より南は香港の喜劇の影響を受けている。北京は馮小剛(フォン・シャオガン)。北京人のユーモア。それより北、東北は趙本山(チャオ・ベンシャン)。周星馳チャウ・シンチー)だけがすべての地域に受ける。
  • 周星馳のギャグは無厘頭と言われているが、そうじゃない。周星馳と僕は午後4時には映画じゃなくて、テレビのマンガを見るんだ。《アラレちゃん》《ドラえもん》とかね。彼はそういう人を演じてるだけじゃない(爆)。人間がマンガを演じてるわけ。
  • 《整蠱専家》の劉徳華周星馳が踊るシーンを見て、王晶は粤劇に最も精通している香港映画監督のひとり。子供時から粤劇を見て育ってきたんだから。僕は粤曲は暗記してる。
  • 周星馳と仕事をしてとても疲れた。まあわがままだしね。僕はもっとも我慢した1人だけどね。
  • 周星馳は俳優としても、脚本家としても監督としても優れているが、他人と上手くやるか、やらないかは自分の選択だから。友達がいなくなるのも自分の選択だからね。
  • 俳優は別に好きでやっている訳じゃない。誰かにオファーしようとすると高いから、それじゃ自分でやるよっていうことになるだけ。初めて主役をやった映画は、本来志偉がやることになっていたが、クランクインに台湾から戻ってこられなかった。それでお前がやれってことになって自分が演じた。
  • 大陸の映画だけが、制限があるわけではない。どこの地域でもあるものだ。(でも大陸では、そいう制限ではなくある種類の映画は撮れないのではないか?色情片、鬼片:鬼片はいまはよくなってきている。心理状態がおかしいということにすればいいので、黒幇片も)12月に上海で撮ろうとしているのは黒幇片の類いだ。駄目なわけじゃない。どのように書くかだよ。ほとんどのものは大丈夫なんだよ。僕も《色・戒(ラスト、コーション)》はどういう版で上映するのか注目している。いい例だ。
  • 自分の映画で一一番少ないのは愛情物語。自分のことがばれるといやだから(爆)。だって脚本家って絶対に自分のことだからね。
  • 映画は集団で作るものだが、集団で作るものは民主主義ではできない。かならず強力なチームリーダーが必要だ。自分はその点では、ものを構築する力に優れていると思うし、他人の優れている点を見つける力があると思っている。集団の中にはちょうどサッカーと同じようにいろいろな部門の人が必要だ。適材適所でよいものができる。
  • 1996から2000年にできた香港映画の1部の脚本に「不是女人」というのがあるが、これは王晶のこと。《高度戒備》《愈快楽愈堕落》《愛你愛到殺死你》も名前がないが王晶。なぜかというと「王晶」というのがひとつのブランドになってしまっていた。それが観客をミスリードすることがある。それで名前を入れないこともあった。「不是女人」はそれを1つのブランドにしようと思ったからなんだ。
  • 邱淑貞(チンミー・ヤウ)は王晶にとってミューズだったのか?と聞かれて、いやそうではない。彼女は僕にとってはよいモデルだった。僕によっていろいろな人がアップグレードしていっている。陳小春、鄭伊健、張家輝、葛民輝など。邱淑貞、林煕蕾、朱茵などね。(だけど邱淑貞とは特別に長い時間に渡って、いや八掛でいっているじゃなくて(爆))。それは俳優たちは自分のところの人間じゃなくて、他の事務所の人だから限界があるんだ。