映画祭で受賞できない香港映画

カンヌ映画祭が閉幕した。香港、台湾、大陸の映画では、唯一大陸の《青紅》が「評議員大賞」を手にした。
映画祭の賞は一つの遊戯に過ぎない。映画祭に「展示」する多くの映画は、買い主をさがしているのだ。映画が受賞すれば、それは映画に花を添え、大きな利益をもたらしてくれるだろう。
香港映画は近年、国際映画祭では以前に比べ精彩がない。
それを説明するのは難しいことではない。香港映画はつねに市場のあるなしにかかっていた。映画の市場がよい時には百花繚乱、悪くなれば市場は小さくなり、映画祭に相応しい芸術作品が生きていくのはさらに難しくなる。
従って、国際映画祭のコンペティション部分に出ていける香港映画は、香港の著名な監督が撮ったものになる。現在の香港には新しい世代の映画人を育てる環境はない。
台湾は香港よりさらに状況はひどい。ただし政府が出資し映画製作をしている。台湾の有名監督たちは映画祭用の映画を撮る条件を備えている。
香港政府が出資して映画を製作することはないだろう。さらに常設の映画に関する機関さえも、あちこちを引きまわされ、映画推進につては、貿易発展局の中に組み込まれている。しかしこれは映画産業や文化芸術作品をよくするためには、なんの手助けにもなっていない。
外市場を当てにすれば、題材は制限を受ける。香港映画の製作人の創意は環境による制限もあり、いつも似たような題材ばかりで、外国の評議員には、魅力的に映らない。
7、80年代は現在とは違っていた。当時は外国で勉強した多くの映画人が香港へ戻ってきて、香港育ちの映画ファンと新しい勢力を形作って、香港で新しい題材を探し出し、芸術と市場の両方を手にしていた。
外市場に頼ることが、香港映画本来の姿を見失わさせ、それが香港の観客を引き付けなくなった理由でもある。
正体がはっきりせず、自分のスタイルを無くしては、映画祭で賞を争うことは自然と難しくなる。by 2005.5.24「明報」郭繾澂 記

またもおしゃる通りだと思いますです。西洋映画に毒された香港映画を見たいわけじゃない。香港映画だから撮れるもの、香港映画じゃなきゃ撮れないものが見たい。どこかにきっと香港らしいものがあるはずだ、今の香港を表す香港らしい映画を見せて欲しい。