「動作指導:一個専業的誕生」

出席:彭志銘、董瑋、張偉雄 
司会:李焯桃
一部、覚えていることを書き留めておく。

  • 彭志銘(パン・チーメン):かつて製作、脚本などを担当。現在は次文化堂出版社社長。左から2人目がトン・ワイ@長髪
    • 香港映画の重要な部分を占めるアクションを専門にする人々の出自は、大きくわけると3つある。1)京劇などで基礎を積んだ人、小七福がその代表。2)功夫をやっていた人。劉家良など。3)功夫をやっていた人の周りの人々(親類縁者)で、5、60年代、仕事がなく閑だった人。袁家班など(すべて兄弟)。
    • 初期は監督や映画関係者が、適当に知り合いなどをつてにこれらの人にアクション部分を担当してもらっていた。アクションをする人は、その場面がどんな場面かも知らず、ただ監督の言われるままにアクションをおこなっていた。70年代になり、自らのスタイルやカメラワーク、美術などにこだわりをもつようになる。さらにアクションに思想を入れるようになってくる。80年代は競争の時代。スターが出てきて競い合うようになる。この時代の映画は香港ばかりでなく、東南アジア全域へ香港映画が輸出されていた、もっともよい時代だった。
  • 董瑋(トン・ワイ):動作導演
    • 京劇などの基礎は、アクションをする上で大いに役立つ。ある高さから飛び下りるとき、いつ体制を立て直すのかなどは普段の練習から学んでいるので、怪我をすることが少なくなる。飛び下りるだけでなく、机の角にあたって、さらに地面に落ちるなどの場合も、机のどの部分に自分の身体のどの部分を当てて、どうやって落ちるのかをすべて想定することで、ダメージを少なくすることができる。
    • サモ・ハンが考えたアクションで気がおかしいとしか思えなかったのが1つある。(どの映画か分からない)ガラスを突き破って、かなりの距離を飛びさらに走ってくる車にひっかけられ、ふたたび飛ぶというもの。まったく計算できないもので、運を天にまかせるという危険なものだった。アクションは命をひきかえにしてはいけない。
    • あと継ぐ人材がいない件で。もし3か月くれるなら、ある俳優をそれなりにアクションができるように見せる訓練ができる。その上で、その映画にあったアクションを教えることができるが、その時間がない。
  • 張偉雄(ブライアン・チョン):脚本、監督(独立系)、評論家
    • (西洋人の聴講者が多かったので説明)香港の動作導演と西洋のスタントは大きく違う。スタントは監督が決めたことをただ行うだけだが、香港のアクション監督は、アクション場面の全てを自ら決めることができる。アクション、カメラアングル、ひいいてはストーリーさえも。香港映画は文と武の距離が非常に近い。
    • 4つの作品を選んで見せる。劉家良《武館》狭いところでの戦い。この後に出てくる狭いところのアクションはこれを模倣している。この部分だけで撮影に32日かかっている。《警察故事》成龍が何本もの電話を取るコミカルな場面。成龍はすべての動作にリズムがある。バスター・キートンを目指した。アクションの1つの新しいスタイルを作った。《少年黄飛鴻之 鐵馬[馬留]》ユー・ロングアンジーン・ウォンのシーン。袁和平は、悪にも善も平等に扱う。サモ・ハンイースタンコンドル》西洋のスタントと香港の武術を一緒にしたもの。
    • イースタンコンドル》にいては、董瑋は見方が違う。嘉禾もサモ・ハンも新しいものを見せたいということで、サモ・ハンのよいところを捨てている。アクション監督はいつもどうやったら人と違うものを見せられるかを考えているし、望んでいるのだが。

おおまかに。董瑋はとにかく危険のないようにしなくてはいけないとしきりに話していた。いつもは写真を撮っている木星さんが今日は質問していた(笑)。
2006.4.17@香港国際電影節(科学館)