光藝−南洋−邵氏

光藝電影公司シンガポールの何一族と香港の映画監督・秦剣がはじめたものだ。1955年創業で、広東語現代劇の一大勢力だっただけでなく、関連するいくつかの会社(潮劇*1を作った潮藝を含む)を作っている。光藝の隆盛は10年間ほどで、60年代の末になり広東語映画が勢いを失っていくにつれ光を失い、香港光藝は1988年に営業を停止する。
中国人の多いシンガポール、マレーシア、タイ、ベトナムなどの南洋地域は、中国語映画の大きな海外市場であり、かつて香港映画に重要な位置をしめていた國泰(キャセイ)、邵氏(ショウブラザーズ)、光藝などの資金はみな南洋からやってきたものだった。香港電影資料館の「現代萬歳−光藝的都市風華」の本では、張建徳の光藝「南洋三部作」についての評論や、光藝の中心人物のひとりである何建業の口述は、ともに南洋と香港映画の関係について、好い資料と観点を提供してくれている。
なぜ60年代末に広東語映画は勢いを失ったのか。シンガポール政府の「語文政策」に関連して、広東語映画は華語(国語、普通語)で上映しなければならなくなったことに似ている。しかしその原因は複雑だ。70年代から再び広東語の香港映画が復興し、国語や英語、その他言語への吹き替え版で海外市場は拡大し、香港映画に勢いのあったころは、言語の壁を越えていた。問題は、この数十年で、各地の中国人社会が変化していったことだ。現在、再びこれらを構築できる力を秘めた中国人映画の主流とは、どんなものなのだろうか。
光藝のころ、香港は国語映画も広東語映画もバラエティに富み、広東オペラも盛んに上演されていた。また他にも都市を題材にした広東語現代劇が撮影されていた。本の中で羅卞は、光藝と邵氏の広東語映画組織を比較し、邵氏は、欧嘉慧、林鳳など女優、張英才、麥基、呂奇、龍剛などの俳優を含む、多くの新人を養成したと指摘している。亡くなってる林鳳は特に懐かしく思い出される。(下)by 2006.4.26@「明報」石琪記

*1:潮州話のドラマ。当事潮州語の映画もかなり撮影されていたらしく、主にシンガポールで上映していたらしい。香港ではあまり上映されなかった(先日の座談会での話し)。