「從 Blog 到 Blookー博客與書的交纏」

左から胡金榮、方潤、呉偉明、梁文道
日曜日(25日)、「從 Blog 到 Blookー博客與書的交纏」と題する座談会が開かれた。これは、中文大学の呉偉明博士が「知日部屋―日本がわかる部屋」(中華書局:刊、HK$88)を上梓したのを記念して開かれたもので、「香港 Blog 文化的知識性」(出席:呉偉明、方潤、胡金榮、司会:梁文道)、「東瀛博客ー香港博客與日本流行文化」(出席:呉偉明、何故、司会:梁文道)という2つの内容だった。


座談会から時間がたってしまって、内容はうろ覚えなので割愛するが、聞きながらつらつらと考えたことを書いておこうと思う。


「知識性」? Blogに知識性が求められていたんだろうか? そんなこと考えたことがなかった(笑)。自分にとってこのBlogは、情報やデータの蓄積、見た映画の記録でしかない。自分勝手な感想や自分勝手な思いつき、自分が面白いと思ったことを書いているにすぎない。それを見る人が面白いと思おうが、役に立たないと思おうがおかまいなしだ。だれかに頼まれて書いているわけでもなければ、スポンサーがついているわけでもないし、これで商売しようと考えているわけでもない。誰かの趣味に合わせる義理もないし、そもそもそんなこと冗談じゃない。


今日は天気がいいとか悪いとか、今日何をしたという知識性のないBlogが多いと話していたが、それもよけいなお世話だと思う。他人にとやかく言われる筋合いはないはず(笑)。毎日天気について書いているBlogや何をしたか書いたBlogも、十分に面白いし、海外に住んでいれば、日本で花が咲いただの、花粉が舞っただの、今日は寒いだのだって、十分に知識的なのだ。知識的かどうかは見る(読む)人によって違う。知識が披瀝されているBlogだけが知識的ではない。


なぜBlogを書き続けているんだろう。「発表欲」なんて言葉が使われていたが、それは少しあるのかもしれない。書くことによって、考えを整理しているということもある。しかし何よりもやはり記録が最も大きな動機になっている。だから過去に自分が書いた映画の感想文を時々読み返したりもする。なぜって忘れてしまうからだ。
(さらに書き加える予定)。