寶蓮燈

《寶蓮燈》
紫羅蓮、張活游、梅綺、林家聲、少新權 
呉回:監督 1956年 モノクロ 粤語


「寶蓮燈」は、中国の古代神話伝説の1つで、粤劇にもなっており、この映画は粤劇を元にしている。
華山の聖母宮の仙女(紫羅蓮)は、下界の人間・劉彦昌(張活游)に嫁ぐが、兄の二郎神が仙女の持つ「寶蓮燈」を奪ったうえに、仙女を華山に軟禁してしまう。仙女の産んだ息子・沈香を仙女に使える霊芝(梅綺)が劉彦昌の元に届ける。劉彦昌は後添えをもらい、もう1人の息子・秋兒を授かる。2人の息子はなかよくすくすくと育ち16年が過ぎた。
ある日、沈香(林家聲)と秋兒は、あやまって人をあやめてしまう。2人の兄弟は互いに自分が犯人だと言い張る。その時になり、父の劉彦昌は沈香に、母がとらわれの身であること、二郎神が仇であり、仇を討たねばならないと話す。弟の秋兒が裁きに向かい、兄の沈香は母を救いに向かうのだった・・・。


こうしてスクリーンで戲曲をきちっと見るのは初てかもしれない。なんせ粤劇の知識はほとんどないので、これが果たしていいのか、面白いのか、という判断がまったくできない。
上映後、唐嘉慧さんという人が、ちょっとした解説をしてくれた。「粤劇を映画にする時、一番大切なものは脚本である。3時間から4時間ぐらいある粤劇のどの部分を取って2時間ほどの映画に凝縮していくのか。その凝縮された中に、役者の得意なシーンを盛り込んでいるのがよい粤劇の映画である。その点ではこの《寶蓮燈》は好くできているし、粤劇のスタイルをよく残した作品である。たとえば、粤劇では人物が登場する時には、かならず銅鑼(出ばやしみたいななもの)が鳴るが、この映画でも1か所を除いて、すべてこれに則っている。ただし、無用な顔のアップがあるのはいただけないが・・・。粤劇の俳優と中聯の俳優(紫羅蓮や張活游など粤劇出身ではあるが、すでに映画俳優になってしまっている)との間には、演技に差があるのはしかたがない。紫羅蓮や張活游の粤曲は吹き替えられている。。。。」
見ていて感じたのは、この映画は粤劇ファンを当てにして作っているわけで、けして映画ファンを当てにしていたのではないということ。それは粤劇の台詞や芝居の流れが、映画として見ると、とてつもなくまどろっこしいからだ。途中で眠りに落ちそうになるほど。そんなわけで、ある種の修行のように《寶蓮燈》3作品を見ることになってしまった(笑)。2011.4.9@香港電影資料館「人人為我,我為人人:中聯電影」


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